2012年10月16日火曜日

創作物におけるリアリティについて


 ゲームを作るとき話題になることに、リアリティばかりを追究してもゲームは面白くならないのでは?というものがあります。
 そこでゲームを中心に小説・漫画・アニメ・映画を含めた創作物について書きます。

SFを例にして 

 ハードSFで扱われる手法で、ギミック(小物)を用意してそれに関わる人々がどう行動するかを描く手法があります。
 例えばタイムマシンです。タイムマシンを手にした人々は時間を遡って歴史に介入します。そうなると、不都合な介入を阻止する人々も現れます。ここで人々が採った行動は筋が通っていてリアリティがあります。
 ところがそもそもタイムマシンの存在にリアリティはありません。しかしタイムマシンを扱った創作物は楽しいものです。それは、タイムマシンを手にいれた人々が必死に自分の人生を生き抜いている姿があるからです。歴史への介入が禁断の誘惑として登場してくることに違和感を持つプレイヤーや読者はいないでしょう。
 
 つまりこのブログの意見としては、「作品中の人々にとってリアリティがあることが大切ではないか」ということです。

 以下、おまけです。

実際に存在するものを扱うとき

 ところで私達が住むこの世界を基にゲームを作る時はどうでしょう?
 武器の弾数がゲーム性に関わる場合についての話がでています。そこでは具体的な設問として「弾数30発の武器があるが、25発のほうがゲームバランスが良い場合にどうするのか?」としています。
 この場合、ゲーム側を修正するべきだと考えます。
 例えば30発でバランスがとれるように撃たれる側の強さや数を増やすことです。また、その武器が強いなら、登場タイミングを遅くするなど。逆に弾数を数えないシステムにするのはどうでしょうか。例えば機関銃は弾数ではなく、掃射回数で処理したほうが良いですよね?射撃速度が早いなら、弾切れが早い代わりに命中率や威力が増すとして処理するのです。
 結局、私達のこの世界を基にしていても、それを作品にする過程で行う抽象化の内容が大切であるということです。これはゲームデザイナーでも作家でも同じだと思います。

ファンタジーは格下か?

 話は飛びますが、ファンタジーはSFより格下だと言われる事があります。これもリアリティに関する考え方が影響していると感じます。
 リアリティを阻害する要因の一つが作者によるご都合主義があります。話の初めのうちは暗に否定されていた存在が、途中から理由もなく登場したりすると、プレイヤーや読者は面食らいますよね。こういったことはどんな創作物でも気をつけることだと思います。
 ところが、ご都合主義になってしまいやすい環境は、SFよりもファンタジーにあると思います。
 例えば、ある神話大系の中でストーリーが進んできたところで、それと相容れない神が登場しても、信仰は人々がそれぞれ信じていれば成り立ちます。そのためたいして矛盾せずに新しい神の存在を導入できます。
 ただし、話の初めに神話大系を完全に提示して、例外を認めずに話を進めた場合は別です。この場合はプレイヤーや読者は大いに面食らうでしょう。例えば、2大神を頂点に神々が2つの勢力に別れて争っているとします。ここに突如、第三勢力が襲ってきたとしたら、おかしいですよね。それよりは「各勢力から2大神に対して懐疑的になった神々が新たに第三勢力を結成した」とすれば矛盾なく話が進みます。
 一方、SFではこのような事は起きにくいです。何故なら作者が想像したギミック以外の法則は(物理学的にも心理学的にも社会学的にも)我々の住むこの世界と同じとしている為です。これは暗に存在する設定とでも言えるものです。
 もちろん、ファンタジーでもリアリティを持った作品があります。全編を読み切ったわけではないので又聞きですが、指輪物語はその一つだそうです。トールキンは言語学の視点から中つ国を創造しており、物語の中でも言語が重要な点になるとのことです。
 結論としては、SFだから格式が高いのでもファンタジーだから格式が低いのでもなく、それぞれの作品の中で判断していくものだということです。
 ただ、傾向としてはファンタジーよりSFのほうが格調高い作品が多いようには感じます。